「神に期待し、神のために偉大なことに挑もう」夫、鳥羽季義の思い出(後編)WEB版

任地の民族衣装を羽織って

鳥羽イングリット

 鳥羽は、「父の手のぬくもりを感じたことは一度もない」と言い、生涯を通して、父親のことを恋しく思っていたようだった。彼の父は、中国の南京近郊で戦死した。大切にしている遺品の一つは、父親が人生最後の日々を鉛筆で綴った小さな手帳で、それは数少ない生還者の一人である隊長が持ち帰ってくれたものだ。しかしながら、地上の父を持たなかったことが、天の父に出会うことにつながったと、鳥羽はよく言っていた。

 鳥羽は、四人兄弟の末っ子として生まれた。夫の戦死から3か月後に自分を出産し育ててくれた母親のことを、鳥羽はとても大切にし、母に対する愛情と感謝をよく口にしていた。鳥羽はクリスチャンになった後、母に福音を伝えようと、聖書のみことばを書いたり、トラクトや福音について書かれた印刷物などを送ったりした。ある時、母が「“そういうもの”は、もう送ってこないで」と言うと、彼は手紙の中に、聖書に書かれていることを自分の言葉で書いて送っていた。母が亡くなる数日前、鳥羽が祈る祈りに応え、母は「アーメン」と声に出そうとしていた。

 鳥羽はものすごく筆まめだった。私たちが出会ってから、プロポーズの後も、週に3回手紙を書いてきて、返事を書くのが大変だった。彼は生涯、天の父のみもとに帰る数週間前まで、どこにいても、手紙を書いていた。少なくとも一日一通、誰かしらに。新しい送り先が次々と書き足されるので、彼のアドレス帳は膨れ上がり、何冊にも増えていた。池田町の郵便局では、鳥羽は切手を買う一番のお得意様として知られていた(鳥羽のせいで、私も)。鳥羽は手紙だけではなく、キリスト教関連の出版物にもいくつも記事を書いていたので、結婚してすぐに、彼が日本のクリスチャン達にかなりよく知られている存在であることが分かった。実際、宣教地へ行くのを引き留められるほどだった!さらに、鳥羽は、任国に関わる公益社団法人などにも定期的に寄稿していた。彼が最初の世界旅行について記録したものや、生涯にわたって書き溜めたものを、ごく最近になって読み始めた長男は、「お父さんからたくさんの手紙をもらったけど、それ以外にどれだけ書いているか知らなかった。お父さんは自分のことはあまり話さなかったから。話すよりも書いていたんだね。全部読むには、少なくとも一年以上かかりそうだ」と言っていた。

 鳥羽には収集癖もあった。切手やコイン、新聞の切り抜きやカリンの民芸品、植物(池田の家の庭に植えるため)など。しかし、何と言っても一番は書籍だ。聖書関連の本、言語や言語学、文化人類学、植物や鳥など。そして特に、様々な言語に訳された聖書。

 鳥羽は、江戸時代に建てられた、日本アルプスの尾根に立つ古い農家で育った。松本からそう遠くはなかったが、全くの別世界だった。私自身、実際にそこに行って、そこからの景色を見、彼の母親に会って初めて、本当に鳥羽について知り、よく理解できるようになった。そして、そこでの素朴な暮らしが、任国の村の暮らしの備えとなっていたのだ。

 私たちが召された働きは、人々がそれぞれの母語で聖書にアクセスできるようになることだったので、鳥羽は私に、私の母語で子どもたちに話すようしきりに勧めた。おかしなことに、彼自身は、子どもたちが言葉を覚える時期に子どもたちと触れ合う時、自分の母語をあまり使わなかった。私たちが任国を離れなければならなくなり、日本に戻ってからようやく、子どもたちにかける言葉が自然と日本語になった。その頃、娘がちょうど言葉を覚える時期だったので、そのこともあってさらに母語で子どもたちに話すようになったのだと思う。

 鳥羽が結婚前から心に決めていたことの一つは、かつて日本のクリスチャンたちに約束した、「生まれ育った地に暮らし主に仕えること」で、何年たってもそのことはずっと思い続けていた。ある時、彼のいとこの一人が池田にある家を売りたいと思っていることを知ると、私を連れてその家を見に行き、日本アルプスがとても近くに見える家からの風景と自転車で通える距離に教会があることを絶賛した。2月最初のその日は曇って、雨も降って寒く、日本アルプスは影も形も見えなかったにもかかわらず。しかし、同じ年の夏に、私たちが引っ越してきた時には、私たちのいる盆地の西側に、美しいアルプスの山並みが連なっていた。(似たようなことが任国の“私たちの”村に引っ越した時にもあったことを覚えている。鳥羽は、近くの“丘”の眺めが美しいことを話してくれていたが、家族で着いた時には、辺りは暗くて何も見えなかった。しかし翌朝、外に出てみると、深く青い冬の空と雪を被って輝くゴツゴツとした岩山、“ほんの”5000mくらいの山々が盆地の北側を囲んでいるのが見えたのだ。)

 鳥羽は、どんな状況でも前向きで、必要であればそれらの状況を変えるために最善を尽くすが、不満を言うことはなかった。それは、彼が聖書のみことばと共に生きていたこと、みことば―特に詩篇―を愛していたことによるものと思う。それは、自分が学んできた様々な言語で聖書を読んでいたことからもわかる。カリン語にみことばを訳す際、新しくふさわしい言葉を見つけると、大喜びしたものだった。任国で新しい言語に聖書が訳されると、必ず一冊は手に入れるようにしていた。みことばに対する敬愛の念から、書道を習うほどだった。そして、他の関心事と同様、書道を通しても多くの新しい交友関係を広げていった。

 結局のところ、聖書翻訳者として生きることは鳥羽にとって自然なことであり、それは聖書翻訳のための生涯であった。

『聖書ほんやく』No.274(2024年12月1日発行)掲載記事をWeb版に編集しました。