中世以降の聖書翻訳とウィクリフ聖書翻訳協会の歴史

中世以降の聖書翻訳

1380年代に、チェコ人であったイングランド王妃は、自分の母語(第一言語)であるチェコ語で聖書を読んでいましたが、イングランド王を始め、イングランドの一般の人々は、母語である英語で聖書を読めませんでした。まだ、英語に聖書が訳されていなかったからです。ジョン・ウィクリフは、そのような状況を何とかしたいと思い、英語に聖書を翻訳しました。

 ヨーロッパでは、イギリスに聖書協会が設立された1800年代の初めに至るまでは、聖書翻訳はゆっくりと進展してきました。 それまでは、ラテン語の聖書が唯一の聖書の時代が長く続きました。 ラテン語が使われなくなると、ヨーロッパ各地で翻訳が試みられました。

 世界宣教の働きが進展して行く中で、聖書翻訳も世界の多くの言語でなされるようになりました。 1800年代の終わりには、522の言語で聖書の全巻ないし一部が翻訳されていました。 1900年代には、さらにそのスピードがあがり、前の百年間の3倍の数の聖書翻訳がなされました。


ウィクリフ聖書翻訳協会の歴史


アメリカに生まれたウィリアム・キャメロン・タウンゼント(1896-1982)は、スペイン語聖書を販売しようと1917-1918年グァテマラへ渡り、そこで彼が出会ったほとんどの人がスペイン語を理解していない上に、彼らが話しているカクチケル語には書き言葉がないことを発見しました。「あんたの言う神は、スペイン語しか話せないのか」その言葉に衝撃を受けたタウンゼントはスペイン語の聖書を売ることをあきらめ、カクチケル族の村に移り住んで、共に暮らしながら、その言語の習得を開始しました。 1926年、ついに複雑なカクチケル語のアルファベットを制定し、文法構造の解明を果たしました。 その結果、新約聖書の翻訳(ドラフト)が完成しました。


 他の少数民族で働く人を訓練しようと考えたタウンゼントは、1934年の夏、夏期言語学講座「キャンプ・ウィクリフ」を開催しました。 英語へ聖書を翻訳したことで知られるジョン・ウィクリフ(1329-1384)の名を冠したこのキャンプの、最初の参加者は2名でした。 そして翌年、訓練した5名を中心に、共にメキシコへ渡り聖書翻訳を開始しました。

働きが徐々に拡大する中、1942年、ウィクリフ聖書翻訳協会(WBT)が組織されました。 この設立メンバーにはタウンゼントのほか、後に世界聖書連盟協会で指導的立場を務めることになるユージン・ナイダや、 国際言語学界で第一人者となり度々ノーベル賞にノミネートされた、ケネス・パイク(1912-2000)がいました。 このパイクは1935年のキャンプ・ウィクリフの参加者でもありました。

タウンゼントは1948年、各地での働き場所の多くが都市から離れた遠隔地であったため、 航空機輸送や無線などによって支える必要を感じ、JAARSを設立しました。 そして、まずペルーでそのサービスが開始されました。

 1951年、ウィクリフとしての最初の聖書翻訳が完成しました。 その後、働き場はフィリピンやアジアの諸国、大洋州の諸国、アフリカ諸国やユーラシアの諸国へも広がり、 派遣国もオーストラリア、ニュージーランド、ヨーロッパ諸国へと増えていきました。 27年後の1978年には100番目の翻訳が、34年後の1985年には200番目、 38年後の1989年には300番目、そして50年後の2001年に500番目の翻訳が完成しました。 しかしまだ2000余の言語に、翻訳された聖書がありません。

 日本ウィクリフ聖書翻訳協会は、1968年、非欧米としてははじめて派遣国に加わりました。 これまでにアジア・南米の諸国からは400名ほどのメンバーが参加しています。 また現地では聖書翻訳団体が20ほど形成され、600名ほどが加わっています。