「神に期待し、神のために偉大なことに挑もう」 夫、鳥羽季義の思い出(前編)Web版

カリン語の聖書と辞書を手にする鳥羽夫妻 

 鳥羽イングリット

 初めて鳥羽を見て思ったのは、典型的な日本人。眼鏡をかけグレーのスーツを着て、やや小さめのスーツケースを二つ持ち、首からカメラをぶら下げ、片方の肩には小さなテープレコーダーを下げていた。彼は私がお世話になっていた家の人が連れてきたのだが、その連絡先は緊急用に教えられていたのだそうだ。私自身、YMCAもYWCAも満室で、LAのバス停から最後に電話したところがそこだった。

翌日、暑さがやわらいだ昼下がり、彼に散歩に誘われた。歩き始めてすぐに計画のある人だとわかった。現在の計画も将来の計画も。たわいもない話で時間をつぶすかわりに、彼は聖書翻訳者になるのだと自己紹介をした。そして、読み込まれたことが一目でわかる文庫本を差し出し、私に読むように勧めてきた。それは、内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒になりしか』だった。強い調子で勧めるので、家に帰る途中すぐに私はその本を読み始めた。その次の日、また一緒に散歩に行くと、早速本の感想を尋ねられた。内村鑑三は彼にとって、生涯のヒーローの一人だった。ちなみに、ウィリアム・ケアリーとジェームス・ヘボンは、共に聖書翻訳者で、同じく鳥羽のヒーローだった。

 それから10日ほどたって、私が教師の仕事のためにペンシルベニアに戻っていた時、彼から手紙が届いた。「断食し、徹夜で祈った結果、君に結婚を申し込みたい。君は私に必要な助け手だと思うんだ」と。彼が永遠の故郷に帰った今、振り返って、私は本当に彼の助け手だっただろうかと思う。55年半の結婚生活ではずっと、私のほうが彼に助けられていたから。

 結婚後、私たちの最初の仕事は、ウィクリフ聖書翻訳協会のことを日本で知ってもらい、その働きを支援してもらうことだった。教会を訪問し、キリスト教関係の出版物に記事を書き、南アジアで私たちが始めるプロジェクトに耳を傾けてくれる人なら誰にでも話をした。その結果は思わしくなかったが、彼は全く気落ちすることはなかった。当時、多くの日本の教会は小さく、自分たちのことで精一杯で(多くは今でもそう)、海外宣教のビジョンがなかったからだ。しかし彼は、その状況は変わると確信していた。南アジアに出発するまでの一年間で、彼は九州から北海道まで100以上の教会を訪問した(その間、私は第一子の誕生を控え家にいた)。そうして出発の日が来た。

 南アジアにある私たちの任地は、1969年当時、エベレストを除けば未知の国だった。特に、これまで書き表されたことのない未知の言語を使う人々がいるという事実は知られていなかった。しかし、「全世界をその手に収められる」神が、その地でそのみ業を始められた。鳥羽は熱心な収集家で、新聞の切り抜きをはじめ、ナショナルジオグラフィックの記事や当時入手可能であった数少ない書籍など、その国に関するものを集め始めた。大学在学中、彼はその国で働く日本人の岩村医師と知り合い、講演会に参加して、そこでかの地では多くの少数民族の言語について研究する人材が非常に必要とされていることを知らされた。

 鳥羽は当初、彼の父親が亡くなった中国に行って福音を伝えようと考えていた。しかし、中国には宣教師は入ることができず、他の任地を探していたところ、エベレストのニュースでそこの山々に興味を持ち、その国について考え始めた。岩村先生の講演で働きの必要が大きいことは知っていたが、どうすれば良いかはわからなかった。しかし、しばらくして、ウィクリフのパートナー団体に属する何人かのメンバーがプロジェクトのために入国したことを知り、自分たちもそれに続いた。1970年2月初旬、私たちは生後2ヶ月になろうとしていた息子のサムエルを連れて首都に到着し、私たちより数か月先に任国入りしていたメンバーたちとの会議に参加した。

 「不可能」とか「困難」といった言葉は、鳥羽の辞書には存在せず、神が遣わされる所どこででも、必要なものは物であれ、泊まる所であれ、学ぶべき言語であれ、聞きとる耳であれ、理解する心であれ、情報提供者であれ、神が備えてくださると信じていた。また、彼には誰とでも旧友のように話せる賜物があり、それは私たちが遣わされて学ぶことになったカリン語を覚えるのにたいそう役に立った。

 鳥羽は、身体的にはあまり強くなかったが、目標を達成するための精神力が強かった。これは、ウィリアム・ケアリーから学んだことだった。ケアリーのモットー「神から偉大なことを期待し、神のために偉大なことに挑もう」は、鳥羽のモットーにもなった。

(次号に続く)

『聖書ほんやく』No.(2024年8月1日発行)掲載記事をWeb版に編集しました。