手話聖書 ~ 世界では今

南アフリカ手話に翻訳された聖書のコミュニティーチェックの様子
 以前、南アフリカ手話翻訳チームと働く機会が与えられたとき、『聖書』について気付かされたことがあります。働きに参加していた一人のろう者が「僕たちは『聖書(手話で『イエス』+『本』)』と表現しているけれど、どうもしっくり こない。『聖書』という手話を見るたびに何か自分とは縁遠い印象を受ける。」と発言し、その日の午後は翻訳作業をお休みにして、『聖書』という手話についての話し合いになりました。結局、原因は『本』という手話で、『本』に聴者的(音声言語が書かれたもので、第一次的には聴者のためのものという)意味合いが強いからでした。その後、ろう者として『聖書』をどう理解するか、手話で表現するにはどうしたらよいかと話し合われ、最終的に『聖書』を表現する時に『神』+『ことば/手話』という手話で表現することになりました。

 世界には400以上の異なる手話があり、多くの人が第一言語として使っています。ろう者は国や地域によってそれぞれ独自の言語と文化を有していますが、多くの場合、多数の聴者(異文化・別言語)の中で少数派として共存しています。そのため、自分たちが住んでいる地域で使われている音声言語(特に文字言語)を第二言語として習得し、使わざるを得ません。ただ、第二言語の習得度合いは人それぞれで異なり、文化特有の表現や聴者的比喩表現による誤解なども多くあります。

 教会の働きにおいては、様々な国や地域でろう者への宣教がなされ、ろう者教会がたてられてきました。その多くの場合、第二言語で書かれた『聖書』が使われ、その言語が達者なろう者や手話のできる聴者がその意味を説明してきました。今でも、手話に翻訳がされていないところでは、礼拝説教の大部分を言葉や文法の理解に費やすことが多くあります。

 手話聖書翻訳は、1981年にアメリカで始められました。ついで、1993年に日本、1994年にはオーストラリアで、ろう者がそれぞれの手話への翻訳に着手しました。技術的な環境としては、1980年代に普及した家庭用ビデオテープ(VHS)によって、手話(動画)の記録・発行が容易になったという背景があります。1990年代〜2000年前半には翻訳プロジェクトが徐々に世界各地で始まり、各プロジェクトが試行錯誤しながら翻訳事業を進めていました。ウィクリフのパートナー団体も、アメリカ手話翻訳に初期段階から関わり、また各国の翻訳事業の立ち上げ、言語調査に関わってきました。

 2005年以降、諸プロジェクトの翻訳者たち(特にろう者)がお互いに連絡を取り、プロジェクト間のネットワーク、協力体制が構築され始めました。このネットワークがより持続的な組織を持ち、アジア太平洋、南北アメリカ、ヨーロッパ、またアフリカで地域の団体を設立して、手話聖書翻訳の働きをリードするようになってきました。特筆すべきは、これらのろう者(一部聴者)はそれぞれ自分の言語への聖書翻訳事業を進めつつ、同時に他の手話翻訳の立ち上げ支援、訓練、また翻訳の技術的な支援などを行っていることです。また、他のプロジェクトへの支援を通して気づきが与えられ、更に知識や技術を向上すべく、各種の学びをしています。今では、これらのろう者の諸団体は聖書翻訳だけでなく、聖書の普及、言語調査、トラウマヒーリング、ろう者の芸術(詩的表現など、翻訳や聖書普及に関わる)の分野へも働きを展開し始めています。

 また、世界ウィクリフ同盟の団体やパートナー団体を含む聖書関連諸団体も手話翻訳に力を入れ始め、手話関連の働き専門の部門を設けたり、手話関連専門の団体が起こされたりしてきています。

 聖書翻訳が必要とされる世界の言語で、まだ翻訳が始まっていない言語は、2000程度あります。そのうち、手話言語は320以上の言語で新たに翻訳が開始される必要があります。現在、50以上の手話言語で翻訳が進められていますので、翻訳ニーズの10%以上は手話翻訳ということになります。また、現在進行中の翻訳プロジェクトも、その多くは始まって数年程度で、聖書全体の数%が翻訳されている状況です。

 2020年には、アメリカ手話の旧新約聖書が完訳され、世界で初めての手話訳聖書全巻が完成しました。2番目に進んでいるのは日本手話翻訳で、全聖書の約33%が発行されています。続いて多くのろう者コミュニティーで、一日でも早く、一節でも多くの御言葉が、ろう者にしっくり くる母語(それぞれの手話)の表現で翻訳されていくようにご一緒に祈り、支え、働きに加わってくださることを願っています。

グローバル手話チームアジア太平洋地区ディレクター・翻訳コンサルタント
『聖書ほんやく』No.264 2021年8月1日発行 掲載記事