少年Sの物語 <連載 第2回>

鳥羽イングリット
 あの無口な少年Sは、がっしりした背の高い青年に成長し、山岳ガイドになっていた。後に語ってくれたことによると、高校の最終学年でスポーツに熱中して、卒業試験に落ちてしまい、それで山岳ツアー会社に荷物を運ぶポーターとして登録したそうだ。よく働き、出世していった。仕事の後は皆がしているように酒を飲んだり賭け事をしたりして過ごした。しかし、そうした生活は、シンガポールの学生グループのガイドとして雇われたことで一変した。彼はすぐに、このグループがどこか他のグループとは違うことに気づいた。彼らは、ただの若いポーターにさえひとりの人間として接し、話しかけてくれた。彼らの一人に「あなたの宗教は何か?」と訊かれ、実は自分の宗教についてほとんど知らないことに気づいた。その夜、グループのリーダーが真剣に語ったことばが、忘れられなかった。

 次の年、そのグループが再び来た時、彼はまた同行した。この時も、彼らが、自分のことをひとりの人間として心から心配してくれていることに感動した。彼らが祈っているのを聞いていると、実際に生きているイエス・キリストという方に向かって話しかけていると感じた。ゆっくりと、何かがかみ合い始めた。私たち家族がまだ村にいた頃のこと、我が家で聞いた歌や息子たちと一緒に眺めた本のことを、彼は思い出した。いずれも神の子イエス・キリストについてのものだった。快楽によって満足すると思っていたが、実は、それでは本当には満たされないことがわかってきた。心の空しさと貧しさを感じた。そうして、遂に彼はキリストを信じた。

 私たちが再会した時、彼はちょうど仕事にあぶれ、次の仕事を探しているところで、「主に仕えたい」という思いを漠然と抱いていた。仕えるために何が必要かはっきりとはわかっていなかったが、山岳ガイドとしてのキャリアを喜んで差し出すつもりでいた。そして翻訳の仕事をする決心をした。パズルのピースが一つずつはまって絵になっていくように、彼の中で徐々にこれまでの経験が一つ一つ意味をもって繋がっていったのだと、ずっと後になって話してくれた。

 最初の仕事は、前任者が翻訳したものを改訂することだった。すると、すぐに彼に言語の賜物があることがわかった。彼は会話でも文書でも意思の疎通に優れ、故郷の村から何年も離れていたにもかかわらず、母語に長けていた。そして、神のことばを伝えたいという強い願いを持っていた。聖書翻訳を始めて2-3ヵ月後、彼は洗礼を受けた。洗礼を受ければ投獄される危険のあった当時、それは勇気の要ることだった。洗礼式は夜明け前、町から離れた人目につかない滝で行われた。会衆もおらず、讃美歌を歌うこともなく、ただ牧師と私の夫、それに3人の受洗者がいるだけだった。彼は、勇気あるステップを踏み出し、その日がカリン教会の始まりになった。時折、「たった3人のために翻訳して何になるんだ。天国に行って、そこにカリン語を話す人が誰もいないとしたら、まるで外国人の間にいるようで落ち着かない」と言っていた。そうした葛藤を覚えながらも、Sは働き続けた。徐々に険しくなっていく山道を行くようでも、怯むことはなかった。かつては重い荷物を担いで険しい山道を登っていたのだから、彼にとってはたやすいことだった。但し、今回担いでいるのは霊的な重荷だった。

 この頃、彼は別のところで励ましを受けていた。聖書翻訳を始める前、クリスチャンの若い女性に出会っていた。「神様にお仕えしたい」と考えている人で、彼は結婚相手はこの人だと思った。実は、1日8時間机に向かって母語の単語を探すという、彼にとって苦手な仕事を勧めたのは彼女だった。その上、高校卒業資格試験に挑戦するよう彼を励ました。かつて、自分では必要と思えなくても言われた事を黙々と行っていたように、彼はその挑戦を自分の担ぐ荷物に加えた。

 二人は結婚し、小さな部屋で生活を始めた。最初の息子が生まれたのは、彼が隣国で母語翻訳者訓練コースに参加している時だった。難しい学びだった。多くのことを学んだが、いったい何の役に立つのか理解できないこともあった。それらは、彼が険しい坂道を担いで登る重い荷物に加えられた。国に戻り、仕事を再開すると、訓練コースでいかに多くのことを学んだのかがわかってきた。単に本から得た知識ではなく、神のことばを理解して翻訳する実際的な技術、注解書の使い方や自分の翻訳のチェック方法を学んでいたのだった。釈義面での助け、またこの分野の指導者に助けられ、次第に自信を持って翻訳するようになっていった。神のことばへの飢え渇きが増し、まだ信者はいなくても、読めば読むほど、自分の民族にとって必要なものであると確信できた。釈義、相応しい訳語、正確さの確認、翻訳原稿の校正、そういったものが担ぐべき荷物に加えられた。「読む人がいないなら、この聖書は何の役に立つのか」と自問を繰り返し、指導者にもしばしばその疑問をぶつけていたが、疑いにとらわれる代わりに、彼は祈りに励みだした。一人や二人のためではなく、聖書を求めて、待ち、祈る信者の群のために。 (つづく…)

『聖書ほんやく』No.263 2021年4月号 掲載