フィリピン宣教地体験旅行に参加して

 黒澤あさひ(2018年参加。当時は高校生)
 この旅行に行くと決断をしたのは、2017年9月。同年の8月下旬、自分の進路について色々なことを検討している時にこのフィリピン宣教地体験旅行のことを初めて聞いた。言葉で表せるような、ちゃんとした目的を持っていなかったけれど、私は今までの学びから発展途上国を自分の目で見て何かを感じることは必要なことだと感じていた。それに、フィリピンに、発展途上国に、興味があるというよりも、世界で起きていることに興味があったので、機会があったらどこにでも行きたいと思っていた。そうすることで自分の視野を広げられて、大きく成長できる。世界に出て得られないことはない。なにより私は世界に出ればどこでも最高に楽しめる。
 目的を意識せずとも自然と気づかされる、自然と自分で考える、そんな旅だった。
実際フィリピンに行ってみて、自分の想像と違ってギャップを感じるということはなかった。フィリピンという国名はよく耳にするが、フィリピンの写真も見たことがなく、フィリピンに関する文献も読んだことがなかったから想像がつかず、どんな国なのかをあまり考えなかった。だから、フィリピンは「こういう国」というのを見たまま、スッと受け止められたような気がする。
 今まで「聖書を翻訳する作業」を気にしたことがなかった。聖書は世界中で読まれているということを当たり前のように思っていた。でもよく考えるとそれは全く当たり前ではないし、素晴らしいこと。今回のこの旅行でその素晴らしさを実感した。そして、バーリグ語の聖書翻訳に携わられたウィクリフの先生方や、現地で翻訳作業を手伝った現地の方の話を聞かせていただいたり、そういう人の資料をもらったりして、聖書翻訳とはどういうものなのか理解が深まった。私は当たり前のように日本語の、母国語の聖書を読んでいるが、それは真の神様を知ってほしい、信じてほしいという一心で聖書を日本語に訳してくれた人がいるからだ。今まで誰が日本語に訳したかということを考えたことがなかった。どうやら色々な人の協力を経て出来上がったものだそうだ。その人たちと、その人たちを日本に遣わしてくださった神様に感謝だと思った。
 通っている学校にクリスチャンはほとんどいないし、クラスのほとんどの人は私がクリスチャンであることを知らない。それについてなんとも思わなかったし、自分から進んで話そうと思ったこともあまりなかった。周りにクリスチャンがいないことは普通、自分の信じている宗教の話をしたり、他の人が話したりしないことも普通、特定の神様を信仰していないことも普通。私はそれを変に感じたことはなかった。しかし、ほとんどの人がキリスト教徒であるフィリピンの人は、日本は危機的状況にある国だと認識していて、どうしてキリスト教徒が増えないのか疑問に思っていた。そうなのか、とかなり驚いたし、確かになんでこんなにキリスト教徒が少なくて、フィリピンでは増えてきたのに、日本には増えないのだろうと、私も疑問に思った。そしてフィリピンに行き、初めてそういうことに気づく私は日常生活で神様のことを忘れていると気付いた。私の周りにいるほとんどの人が神様を知らないという現実を日常にしていて、それが日常であることをおかしく思ってこなかった。フィリピンの人々はこんな状況にある日本のために祈ってくれている。海の向こうに、私たちを愛し、私たちのために祈っていてくれている人がいることを忘れずにいたい。しかし、ほとんどの人がキリスト教徒である、フィリピンにも祈りが必要である。フィリピンには自分たちの言語で聖書を読めない人がまだ存在する。母語で聖書が読めるすばらしさを感じた私はそういう人の為にも祈っていきたい。
 フィリピンには時間にルーズなところがあるが、それがフィリピン人の醸し出す「おおらかさ」の根源でもあるのかなと思った。ルーズであるが、アバウトではない。適当なわけではない。そこがまたいいところで、素敵だなと思った。フィリピンに住む人々の心に根付く、心の文化のようなものに触れられたことが一番の収穫で、大きなものを掴めた。そして何より嬉しかった。きっと全ては理解できてないだろうし、何十年も住んでみないとわからないこともあると思う。もちろんフィリピンに行ったからには、できる限り、人々の心に宿っている文化のすべてに触れたいけれどそれはできない。でもこのように少しでも触れるって本当に大事なことだと思う。あとになってひらめくこともあるだろうし、そういう経験や記憶があることで、絶対自分の人生の助けとなってくれる。
 フィリピンの人々は皆、心から私たちのことを歓迎してくれて、私たちに出会えたことを神様に感謝した。一緒に賛美し、祈った。それはどれも心の底からだった。それがとても伝わってきて、フィリピンの人々に会えたことを更に嬉しく感じた。神さまと出会えてなかったら、これらの人々に会うことも無く、こんな喜びを味わうことも無かったのだと思うと、神様に出会い、神様との関係が続いていることに本当に神様に感謝だ。神さまを愛する喜びが私の心に流れてきて、私もこの人たちの神さまの輪に加わりたい、一緒に賛美したいと思った。まさしく彼らは私にとっての「喜びの使徒」※。私も自分と関わるすべての人にとって「喜びの使徒」でありたい。
 この旅は私が「何か大きなものを掴める」と、心の底から感じたことによって始まり、そう私が思うように神様が働いてくださった。今は現地の人々の心の文化に触れることができたことが、掴んだものの中で一番大きく感じているが、それはこれから変わるかもしれないし、今回の経験で何が一番私に影響を与えるかはまだわからない。だから私は感じたことや気付いたこと、学んだことすべてを大事にする。
また、「心の底から」ってこういうことなのだとよくわかった。心の底から神さまを礼拝している姿を見て、私ももっと神さまのことを知りたいと思ったし、今回の旅行で神様との関係がさらに深くなった気がする。心の底から何かを思って行動している人を見ると興味が湧いて、魅かれる。そんな伝道の仕方もあるのかなと思った。
(2018年に書かれた証から抜粋して掲載しています。)
※『祈りへの旅立ちーマザー・テレサに導かれて』(片柳弘史著 ドンボスコ社)に出てくる表現