ドキュメント

行く先を知らずに、畝高浩子、2002.3.5

ウィクリフの働きをこのように多くの方々に知って頂く機会を感謝します。 「行く先を知らずに」出て行ったアブラハムの心持ちで送り出されたのが、1997年1月19日。PNGのワシラオ村で奉仕された橋本一雄宣教師の、告別式の翌日でした。それから4年半後の2001年6月からの3ヶ月、10月からの予期せぬ3ヶ月、日本に帰国しました。フィールド・トレーニング、奉仕国語の学び、インドネシアのM語に導かれるまでの数年間は、およそ一般的なウィクリフメンバーの足取りとはかけ離れていたかもしれません。導きに従っていると信じ歩いてきますと、鼻先で扉が閉まった、という事も..。奉仕国公用語インドネシア語の学びの後に、英語で修士号取得へのチャレンジ、そして一度は完全に望みが断たれたと思われた場所、暴動直後で奉仕開始は不可能に見られたマルク地区へとの導き。

今日までの5年間、本当に忍耐とご愛をもって兄弟姉妹がたが祈って下さらなかったならば、神様の事業は何も起こらなかったのではないか、と切実に思わされました。と言うのは、何か新しい事に取り掛かるたびに、壁が立ちはだかって、行く手を阻んだからでした。もちろん誰もが何もかもが、スムーズに問題無くいくのではないのです。しかし、本当にことごとく、最初の入国ビザ申請の手続きの手違いから始まり、インドネシア語の学びのクラスや住宅環境、ジャカルタはじめ全国規模の暴動で学びを中断、心に希望を持って望んでいた奉仕候補地マルク地区での、1999年またも突然の暴動の勃発。それに伴ない種々のあらゆる霊的妨害にも追われ続けました。マルクに決まった後、また手違いが続発。そしてM語村へやっと訪ねる事ができた後、政府の許可は出ないかもしれないから、他へ移る事を覚悟するようにとの指示。

日本を発ったすぐその日から、私は真剣な祈りの依頼を書く手紙を、幾度も書かずにはおれませんでした。そのように、試みを通して厳しく御心を問うようにと、一貫して主はなされました。そうわかっていても、つらいものでした。しかし、(そう、この「しかし」です。)全能にして愛なる主によって、全ての問題は、閉ざされていた戸は、いつも期日間際に解決され、開かれました。毎回奇跡の連続、と言って過言ではありません。神様は、どのように不可能に見える状況の中にさえもありありと働かれ、聖書翻訳と識字教育の働きを、それを必要な人々のために進めておられる。この事実に、圧倒され続けました。このような証しは書いて書ききれません。主が生きておられ、祈りを通してご自身のみわざを進められる事は、お手紙で逐一報告してきました通りです。私に限らず全てのウィクリフ奉仕者は、多くのこのような経験があると、思うのです。

日本の外に出てみますと、神のわざを阻もうとするものとの霊戦の、何と目に見えるようにして多いことでしょうか。しかしそのような中で本当に感謝な事は、聖書翻訳と識字教育の使命と愛に立った背後からのお祈りが、何の力の無い者をいつも支えて下さったことです。宣教は前線に出ている者が一人で地と泥にまみれて戦い成してゆくわざではありません。ウィクリフはアカデミックな頭脳集団、とまず言われてしまう向きがあると聞きましたが、しかしそれでもこの宣教は、小手先の技術や要領、頭脳のみによって行なうものではありません。使徒たちがなしたような、主の霊によって、兄弟姉妹がたと教会のお祈りを通して宣教の大部分がなされている、と私は現場にいた者として証言してはばかりません。そして主はその祈りと犠牲に、具体的に報いて下さるお方です。

村での生活で人々に接する中で、生きたみことばが心に刻まれていればなあ、と思わせられる悲しい場面もありました。悪霊と呪術を極度に恐れ、クリスチャンの村人同士で愛の冷えた光景を見せられたり、イスラム信者のほうがかえって立派に見える時などもありました。もちろん大人の中に模範的な信徒はいますが、私は特に子どもたちの中に、イエス様を愛してやまない純粋な輝きをかいま見て喜びをおぼえました。

よき主はこの幼い人々を召して、母語での聖書翻訳の望みを与え、道を開いて下さるのだろうと思いました。出かけた者も祈り支える人も、等しくそのお手伝いをしているのです。いやみんなが一緒になって同じ目標を仰ぎ見させていただきたい。母語聖書の完成、現地の方々による教会形成、信仰の継承、という幻の美しい実現を描いて、神の国を建てていくのだ..と村で願い、また日本に帰ってきてからも思い続けています。このような暗い時代であるのだからこそ、いっそう主と御言葉からの希望に満たされ、燃やされたいのは私だけでしょうか。

インドネシアではマルクをはじめカリマンタンもスラウェシも、外国人が入って奉仕できにくい、危機的状況が続いています。世界を見渡しても、ご存知の通り、宣教の容易な所は一つもないかと思います。しかし主が始められた事は、主が完成なさると私たちは聖書から教えられ知っています。自分の言葉で御言葉が心にひびく一つ一つの小さな瞬間、これが自分にも起こり、私たちが会った事のない人々、肌も言葉も違う人たちにも起こり、キリストの命が世界を作り変えますように。祖国日本が神様に立ちかえり、世界中の主の民が母語の御言葉で真のいのちを得ていかれる事を切に願いつつ。

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々の共に恵みを受け継がせることができるのです。 使徒言行録20章32節」