ドキュメント

ウィクリフと教会設立、デニス・コックレーン、1987.7

”ウィクリフは果してチャーチ・プランティング(教 会設立)をしているのか”という話題はずっと議論さ れてきました。一般的には「否」という見方が多いで しょう。しかし「今日世界中で最も成果を挙げている 教会設立機関の一つはウィクリフだ」という人もいま す(WORLD TEAMの国際部主事J.アレン・トンプ ソソ帥)。同時に、ウィクリフは教会設立には間接的 にすら関わっていない、という人もいます。どちらの 意見が正しいのでしょうか。ウィクリフの奉仕の結果 教会ができた例は沢山あります。しかし実際にウィク リフがこれらの諸教会を設立したのでしょうか。

こうした全く相反する意見が出るのは、おそらく質 問に問題があるからではないでしょうか。伝統的見解 にぶつかるかも知れませんが、敢えて次のように尋ね てみる価値はありそうです。「教会はプラントされる (植えられる)ものか?」と。 「教会を植える」ということばが聖書の中に見つかる か、その概念があるかどうかを問う必要があります。

新約聖書によれば、宣教活動の結果として当然新し い教会ができあがるはずですが、それは植える過程と いうより産み出す過程のように思えます。使徒パウロ はコリントにできた新しい教会に対する「産みの苦し み」について語っています。明らかにパウロは教会を 植えたのでなく、産んだと感じていました。

植えると産むとではかなり違います。植えるのはか なり機械的ですし、産むというのは心底から自分を与 えつくすことを示しています。この与えることについ てパウロははテサロニケの新しい教会に「実際、わたし どもはあなたたちを深く愛し、またいつくしんでいた ので、福音の言葉のみならず、われわれの生命までも、 あなたたちに与えたいと思ったくらいであった」と書 き送っています。産むという感じですね。新しい生命 の形成と養育に自分の全存在をそそぎ込む母親の姿で す。

生まれたのでなく植えられた教会は、宣教師が去っ た後は長続きしないというのが私の印象です。聖書は 植えることにも言及しますが、その場合はいつも種を 植え付けることに関してです。そして種はいつも神の みことばなのです。ウィクリフは種を植え付ける奉仕 にたずさわっています。私達が植え付ける種は驚くほ ど良質ですから、神のもとに人々をつれてくるのに、 どんなドラマチックな奇跡もこの種ほど効果的ではあ りません。それにこの種は天の保証つきです。つまり 神の目的は必ず実現するという保証で、人々を礼拝や 伝道のための交わりに連れてくるというのも目的の一 つです。

ウィクリフは教会を植え付けるのでしょうか。ヤコ プは「あなたがたの魂を救うことができる、心に植え 付けられたみことば」といっています(ヤコプ1:21)。 魂を救うこの同じみことばが新生したばかりの信者に 勧めるのは他の信者と共に集まって行う相互啓発とキ リストへの合同礼拝です。さらにみことばは指導者を 任命し、洗礼式や聖餐式のような礼典を執行したり、 世界中の人々に福音を伝えるように、と教えています。 こうした集まりが何百とできあがるようになったのを 私達はみてきました。種が植え付けられている最中に すらそうでした。

私達の専門は種を植えることです。植え付けがうま くいけば教会はできあがっていくのです。それも人に よってではなく、聖霊によって産みだされるのだと信 じています。

教会の誕生ははかりしれない愛と、念入りに植え付 けられた翻訳されたみことばの種、そして激しい産み のや苦しみの結果です。

ウィクリフはチャーチ・ブランティングをしている のでしょうか。皆様のご判断におまかせします。